ここ数年をかけて仏教やバクティヨガを学んでいます。当初は「宗教を学ぶ」態度でいましたが、ヨーガと共に生活に取り入れ、熟成していく過程の中で、「宗教」という言葉の選び方に違和感を覚えるようになりました。
実際に、仏教の本質は「仏法(ブッダ・ダルマ)」であり、ヒンドゥー教の本来の呼び名は「サナータナ・ダルマ(永遠の教え)」です。いずれも単なる「宗教組織」というよりは、生き方の根底にある「真理」や「教え」そのものを指しています。(もともとインドやアジアには「〇〇教」という限定的な分類法はなく、近年以降、西洋からの宗教観の流入や、外部の文化と区別するため、便宜上、仏法は「仏教」に、サナータナ・ダルマは「ヒンドゥー教」と呼ばれるようになったのです)
この二つの教えに共通しているのは、「苦しみの原因」と「それを乗り越える方法」を説いていることです。
人生で苦境に立たされたとき、わたしたちは「いつ終わりがくるかわからない」という絶望感や、「これ以上悲惨なことになるのではないか」という恐怖心に襲われます。
苦しみの根本原因が「自分の中にある煩悩」だと理解し、その心の態度で生きられるようになると、苦による起伏の波が和らぎ安定してきます。しかしそれまでは、あがいて(じたばたして)しまうものです。相当な痛みを伴うこの「じたばた期」は必須の通過点であり、逃げることなく辛抱強く留まらなくては「安定した心境」や「内側に留まる感覚」に至ることはできないと思います。
では、なぜその苦しい時期に神仏の存在が支えとなるのでしょうか。
これは「祈れば不思議な力で問題が解決する」という意味ではありません。人間以外の絶対的な象徴に向かって祈り、お経(真言)を唱え、感情を吐き出すことで、自分の力ではどうにもならない現実を受け入れ、散漫になった意識を「内省(自分を見つめること)」へと向けることができるからです。
決して、弱さゆえの、逃避するための存在ではなく、自分の煩悩と向き合うための「揺るぎない支え」として、仏や神が具現化した形(象徴やお経)で存在してくれています。
そうした痛みの中でも辛抱強く留まる「助け」となるの行為が、
神仏に手を合せること、教えを傾聴すること、そして瞑想やヨーガをすることであり、
それらの実践は、自分の煩悩や苦しみから逃げずに見届けるための「体力・気力・観察力・継続力」を養ってくれます。そして、わたしたち自身をより柔軟で、強くしなやかな存在へと育ててくれるのです。
苦境のさなかにいるときは本当に辛いものです。ですがそのとき「何を選択し、どう心を整えるか」によって、未来が変わります。
新年度を迎えるにあたり、2025年度も、こうした学びや実践を精一杯皆さんに伝えていくアサナンでいたいと思っています。
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