2025/03/23

ヨーガと、宗教と。

わたしの育った環境では、宗教について学ぶ機会がほぼなかったので、宗教についてよく知らずに過ごしてきました。大人になって、それも随分な大人になって、宗教を学び、知るようになりました。

何年もかけて仏教を、そしてバクティヨガにより神を知り、ヨーガと共に生活に取り入れ、熟成していく過程の中にいます。確実な変化を感じているのですが「この変化を伝えよう!」と思った頃に、また新たな境地に至るので、追いつきません。宗教からかけ離れたところにいた「わたし」にとって、新たに感じるもの、それによってもたらされる変化が大きいということでしょう。そのようなことですので「もし、今のような心持ちで、過去をやり直せたら…」と思うこともあるのですが、それは違いますね…その過去があったから、今の境地に至ることができたのだと、思い直しています。

苦境のさなかにいるときは、いつ終わりがくるかわからない絶望感や、これ以上もっと悲惨なことになるのではないかという恐怖心に襲われますが、そのようなときに一時でも、すべてを吐き出せる対象(“人間”以外の)があることは有難いことです。お経(真言)を唱えること、祈る行為などを通して、自分ではどうにもならない嘆きを受け入れ、それでも生きよと共に寄り添ってくれる存在があることは有難いです。

このように書くと、あたかも宗教とは「弱者のみが頼るもの」という印象を持ちがちですが、そうではなくて、苦境や願望を抱えたことがないという人はいないのですから、誰しもが触れる可能性があり、仏・神・自然、そしてヨーガは、生きるすべての人にとって智慧を、そして、より良く生きるための体(健康)と心(健全)と精神を養うツールとなって働きかけてくれます。

わたしの知る宗教は「仏や神に頼ることで不思議な力が降り注いで、問題を解決してくれる」というものではなく、その「問題」は自分の中の煩悩が生み出しているのだから、自分の心を見据えて、整えて、その苦境に立ち向かうことを教えてくれています。

問題を見据えることだけでも大変なことなのに、わが心を見据える(煩悩を見据える)なんてことには、相当な痛みが伴います。そしてそう簡単なことではありません。それらの手助けとなってくれるのが「行為」なのですが、例えばそれは、お寺や神社に出向いて手を掌わすとか、法話を聴くとか、お経や祝詞を唱えるとか、そしてヨーガをすることも、見据えることを充分に助けてくれます。見据えるのに必要な体力と気力と観察力、そして辛抱強さと継続力は、それらの行為によって養われ、わたしたちそのものをしなやかに、そして強くしてくれるのです。

苦境に立っているときはとても辛い。ですがそのとき、何をするかによって、未来が変わります。

新年度を迎えるにあたり、2025年度も、そのようなことを精一杯伝えていくアサナンでいたいと思います。