8月6日の原爆の日の前夜、
いつもヨガ教室でお世話になっている教専寺さんにて「原爆忌追悼法要」が行われました。
広島に引っ越してきてからの25年間、原爆の日は毎年、朝、黙とうを捧げ、灯籠流しや祈祷のために平和公園を訪れるなど、特別な日として過ごしてきました。
ですが、いつも、「自分は何をしたらいいのか」「どんな想いで過ごせばいいのか」といった
違和感のようなものがあり、
合掌をせずにはいられない気持ちで手は合わせますが、
私に何ができるのか、何をすればいいのか、といった思いも同時にわいていました。
そのような思いを抱えたまま、今年初めて、教専寺さんの法要に参加させて頂いたのですが、
最初のご住職のお言葉に
「どんな想いで過ごしたらいいか、皆さんで考え、感じて、共に過ごしたいと思います」
とあり、まずはそこで、ああ、わたしだけではなかったのだと思い、
更には、親鸞聖人の御言葉を引用した資料が配られ、その文章の中に、ざわつく心の正体を見いだせた気がして、
「どのような心持ちで」「何をすればいいのか」が自分の中で具体化され、
その心のざわつきは、解消されたのでした。
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絶対にあってはならないようなことを、人は為してしまうことがある。
それほどの恐ろしさや危うさを、当然、自分も持ち合わせている。
自分の危うさを受け入れつつ、
(そしてその危うさは他者にもあることを忘れないで)
思いやり、信頼し合えるような関係を結ぶ努力を続けていこう。
そのような心の態度で、そのような努力をすることが、自分にできること。
と、心の整理がついたのです。
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そして、
原爆で、ご親族を亡くされ、当時の記憶が残る先代ご住職が
「今、わたしは、あの日の幼かった自分にかえって、皆さんと共にお経を唱えていました」と話され、
その言葉の奥に秘められた深い悲しみが、胸に重くのしかかり
―あの日から77年、力強く生きてこられた証のような目の輝きと共に―
心打たれるものがありました。
このように、今年の原爆の日は、いろんな意味で、これまでとは違う特別な日となりました。
そしてそれは、原爆の日に限らず、日々、思い出すべきものとなって、わたしに刻まれたように思います。