2022/08/06

8月6日を想うとき

8月6日の原爆の日の前夜、

いつもヨガ教室でお世話になっている教専寺さんにて「原爆忌追悼法要」が行われました。

広島に引っ越してきてからの25年間、原爆の日は毎年、朝、黙とうを捧げ、灯籠流しや祈祷のために平和公園を訪れるなど、特別な日として過ごしてきました。

ですが、いつも、「自分は何をしたらいいのか」「どんな想いで過ごせばいいのか」といった

違和感のようなものがあり、

合掌をせずにはいられない気持ちで手は合わせますが、

私に何ができるのか、何をすればいいのか、といった思いも同時にわいていました。

そのような思いを抱えたまま、今年初めて、教専寺さんの法要に参加させて頂いたのですが、

最初のご住職のお言葉に

「どんな想いで過ごしたらいいか、皆さんで考え、感じて、共に過ごしたいと思います」

とあり、まずはそこで、ああ、わたしだけではなかったのだと思い、

更には、親鸞聖人の御言葉を引用した資料が配られ、その文章の中に、ざわつく心の正体を見いだせた気がして、

「どのような心持ちで」「何をすればいいのか」が自分の中で具体化され、

その心のざわつきは、解消されたのでした。

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絶対にあってはならないようなことを、人は為してしまうことがある。

それほどの恐ろしさや危うさを、当然、自分も持ち合わせている。

自分の危うさを受け入れつつ、

(そしてその危うさは他者にもあることを忘れないで)

思いやり、信頼し合えるような関係を結ぶ努力を続けていこう。

そのような心の態度で、そのような努力をすることが、自分にできること。

と、心の整理がついたのです。

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そして、

原爆で、ご親族を亡くされ、当時の記憶が残る先代ご住職が

「今、わたしは、あの日の幼かった自分にかえって、皆さんと共にお経を唱えていました」と話され、

その言葉の奥に秘められた深い悲しみが、胸に重くのしかかり

―あの日から77年、力強く生きてこられた証のような目の輝きと共に―

心打たれるものがありました。

このように、今年の原爆の日は、いろんな意味で、これまでとは違う特別な日となりました。

そしてそれは、原爆の日に限らず、日々、思い出すべきものとなって、わたしに刻まれたように思います。